カミセンの学校昔ばなし

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 学校生活の中などでいろいろな場面であったことですからまとまりはありませんが、昔の記憶の中から探したものをまずはメインメニューに載せ、その後左にあるそれぞれの話題に移動します。
 ここには、上記にタイトルに関係して気付いたり話したり書いたりした文書を載せてあります。

掲載 2021.1.13

令和3年が始まりました。あけましておめでとうございます。
「職員向け」にH17年度の校長通信をアップしました。
昔の文書ですが、どこかで役に立つかもしれません。

掲載 2020.12.24

なぜ研究が大切か

 本校の教育に関するアンケートに多くの皆様のご協力をいただきありがとうございました。後日、全体のまとめをお知らせいたします。
 その中で、研究することで子供が落ち着かないのではないかというような意見がありましたので、なぜ研修や研究することが必要なのかということを少しお話ししたいと思います。
「研修は、教師の命」とか「研修なきところに教師の進歩はない。」とか言われます。これは、教師にとっていかに研修が大事かを表したものです。
 最近、ベテランの教師でも学級が荒れてしまうという事例が多く出てきています。どんなにベテランでも同じことを繰り返してばかりでは、子供の変化に対応できなくなるのです。
 いかにベテランの教師であっても自分の指導に過信し努力を怠ると、子供の心がつかめず、全体の掌握ができなくて学級が荒れてしまうという悪い例です。常に前向きに努力し、修養に努めている教師や研究を積極的に行う教師にはそういうことを耳にしたりすることはありません。
 東京都には教育研究員制度があります。研究員となった教師は、度々出張します。その時、子供たちは淋しい思いをするかもしれません。本校でもここ数年、何名かの教員が研究員として選ばれ、研鑽を積んでいます。私は、教師が研究することで学んだことが子供たちを以前より数倍育てていってくれていることを実感しています。
 また、教師の一部には、子供が心配で研究会に行ったり、研修したりするより、いつも子供と一緒にいたいという考えを主張する者もいます。
 しかし、30年前の知識を十年一日のごとく切り売りをしているだけでは現在の子供は育ちません。30年前とはあらゆる面で異なっていることは言うに及びませんが、教師は刻々と変わっていく教育の状況に対応して指導力を高めていくことが求められています。
 このことは、社会人として生活する者として当然のことです。そうでないと、時代に取り残されてしまいます。もし一般会社などで時代に取り残されてしまうとそれは死活問題となることでしょう。
 学校でもそれは同じです。かって、「いつも子供と一緒に」と言って研究会に参加しない教員がいました。だからといって、その教員は、休み時間に子供と一緒に遊ぶということはありませんでしたし、5分で指導する内容のことを一時間かけて教えたり、一時間かけて教えるべき内容を5分で教えてしまうようなことをしていました。
 これでは、子供は育ちません。
 教師は、子供の発育に大きく影響を与える存在です。教師が研究で身に着けた成果が子供の人生を実り豊かなものにしていきます。だからこそ不断の努力としての研修、研究が必要なのです。
 教育公務員として法律によって不断の研修が義務付けられているのもそのためです。私たち教員にとって研修、研究は子供たちの未来を担う教育者として重責を果たすため必要欠くべからざるものなのです。
 私たちは本校の特色である研究校として一人一人の子供のために切磋琢磨し努力し続けることが必要だと考えています。今回の学校公開でも研究成果の一端が皆様に見ていただければ幸いです。ご来校をお待ちしております。

 

〈校正メモ〉
 もちろん教師は、自分自身で努力して力を付けることも必要ですが、一人だけでは本当の力にはなりません。自分で自分は見えにくいからです。また、私たち教師は、現代の教育課題を授業の中で解決していかなくてはならない使命があります。
 特に、今の教育は、私たちの小学生時代の教育とは異なってきています。先日、少人数指導を参観にきた保護者の方がご自分の小学生時代との指導の違いに驚いていました。
 私が小学生のころを振り返っても、授業はほとんどが教え込み型の授業でした。教師も効率のよい教え方を研究し、実績を上げようと努力しました。知識伝達が教師の役割だからでした。それでも私たちの子供時代は、十分に役割を果たしました。
 たとえば、本校で研究している「考える力」の育成にしてもその頃だったら取り上げて研究しなくてもよかったことでしょう。知識さえ与えさえすれば、考える力は育ってくれたのです。
 なぜなら、生きていた社会背景や環境が今とは違うからです。たとえば、昔から伝承された倫理観があり、親や祖父母に厳しく躾られたことや子供が大勢いていつも切磋琢磨していたこと、ものがなくいつも考えて作ることが必要だったこと、
子供の活動できる広く多様なスペースがあったことなどです。今と比べると子供の能力を発揮できる条件が大きく違うことが分かります。

 

 なぜなら、常に努力し、努力の仕方を知っているからです。そして、努力するものには必ず解決の道が見付かるからです。研究は刻々と変わりゆく子供への指導のポイントを教えてくれます。 指導力の向上を図るためには、教師が目標をもって自己改革に取り組むことが必要です。自分だけで努力できる教師もいますが、私の経験では時間が余れば楽をしてしまいます。そこで、なるべく自分を目いっぱいの状況に追い込んで仕事をしました。 

 

 よく「ゆとり教育」といいますが、ゆとりは子供のものであって、教師のものではありません。子供にゆとりを持たせるためには、教師が細部にわたり綿密に準備する必要があるのです。そのやり方や子供の指導の仕方を教えてくれるのが研究です。
 逆に、その時間が活用できない教師であれば、その教師もまた無能であるということです。

掲載 2020.11.24

悪いこともよい経験に

 私は、「何事も経験だ。」と思うことがあります。自分でも失敗したり、成功したり、親や友達のしたことの影響などで、自分の人生の方向が決まってしまったと思うことがあります。しかし、そんなことのすべてが今の自分を作っていると考えると、どんなによくないことでも経験してみることが大事だと思うようになりました。何とか自分が生き延びてきたのもこれらの経験が生きているからだと思うからです。。
 ノーベル化学賞を受賞した白川英樹氏も、実験ミスからできた物質から新しい発見をしたと言っています。「失敗」の中から「真理」をつかみ取った良い例です。
 先日、下校時刻に学童擁護さんから学校へ連絡が入りました。下校途中の子供がトラブルしているというのです。急いで現場へ行くと、マンションの前で5人の子供たちとマンションの管理人さんが待っていました。話を聞くとマンションの門を開けるナンバーキーロックを子供たちに押されるのだが、壊れてしまうのでやめさせてほしいというのです。
 その場にいる子供たちは、反省した様子でうつむいていました。私は、管理人さんに謝罪し、子供たちに「二度といたずらはしないこと」「家の人には、自分から報告すること」を指導し、帰しました。後で、1人の子のお母さんから電話があり、謝罪にいかなくていいかと聞かれました。その子は、家に帰って家の人に話したのでしょう。私は、とてもうれしく思いました。その子はもう二度と同じ過ちはしないでしょう。
 親は、子供に対する責任があります。だから、子供の過失には責任を負わなくてはなりません。しかし、あまりに過剰になりすぎると子供が自分で考え判断する経験をすることができなくなります。今回のことでもいたずらはよくないことですが、大人が謝罪している姿を見て子供なりに感じてくれているんだなと思いました。子供にそういう経験ができるなら、私は何度でも頭を下げにいきたいと思います。
 子供は、生活の中でいろいろな経験をして育っていきます。よい経験だけでなく、悪いこともよい経験です。そのとき周りの大人がどう対応するかでそれがよい経験になるかどうかが決まります。学校では、共通の基準を設けて一貫した指導をするように心がけています。「生命に関すること、人権に関すること、人の迷惑になること」については、厳しく指導します。
 「みんなで育てよう○○の子」が合い言葉です。いろいろな機会にいろいろな経験をさせ、子供の規範意識を育てるため、ご家庭でも学校と同じ判断基準でのご指導にご理解とご協力のほどお願い申し上げます。

掲載 2020.11.20

子どもたちに価値ある体験(原体験)を

パターン@

 子供たちは、多くの体験を通して知恵を身に付け本当の自分を発見します。それによって心にエネルギーを蓄え、心を成長させていきます。学芸会などの行事が行われるのもそのためです。知識・理解だけでは心が成長しないからです。ですから、子供たちに価値ある体験をさせることが大切なのです。
 先日、本校で行われた研修会で理学博士 品田穣先生から「原体験が大切」というお話を聞く機会がありました。先生は、「総合的な学習は、ヒトの暮らしや生きものの暮らしから、子供が自ら課題を発見し、考え、解決していくプログラムをどうつくるかが問題だ。しかし、その前に子供が自ら課題を発見する準備として、主体的に行動する原体験が重要だ。」とお話しされました。
 原体験が重要だということは私も同感です。恐縮ですが、私自身の子供の頃の原体験を3つお話しします。
 1つは、母親の実家に夏休みに行ったときのことです。駅から1時間以上歩くのですが、途中から全く明かりがなくなり闇夜を歩くのです。
いつまでたっても明かりが見えず、やっと明かりが見えたときには本当に嬉しかったことを覚えています。しかし、それからがまた不安でいつまでたっても明るいところに到着せず、逆にその明かりが遠ざかってなんとも言えない心細さを覚えました。
しかし、そばにいる人間の温かさと、到着したときの嬉しさは、忘れられません。「希望の光は必ずある」とどんな苦しいときでも頑張れるのは、この体験があるおかげかもしれません。
 2つ目は、空き地にほったて小屋を作ったことです。私の小さな頃、まだ東京にも空き地がいっぱいありました。家の前の空き地で、学校から帰るとすぐに友達と秘密基地を作りました。
そのときの経験は強く心に残っています。今でもその経験が仕事の計画・立案に生きていると思いますし、機械、木工などに強いのはこの経験のお陰だと思っています。
 3つ目は、魚やザリガニ、うなぎなどを取ったことです。とり方の工夫をしたこと、物事のこつをつかむことなどを学びました。そのことで、命の大切さ、食物の大切さを感じたこともよかったと思います。その他、多くの原体験が今でも私の力になっていることを感じます。
 子供の頃に原体験をしていると大人になってからもストレスを感じにくいという話も聞いたことがあります。これは、人間も本能を呼び起こすような原体験を体感することによって動物的な強さを身に付けるということなのでしょう。
 私たち大人は、子供の頃に多くの原体験を経験し、知らず知らずのうちに知恵と強い心を身に付けていたのかもしれません。しかし、現在の子供たちには、なかなか原体験を経験する機会がなくなってしまいました。
 週休2日になり、子供たちは学校を離れて過ごすことが多くなりました。家庭でも学校ではできない体験を多く積ませていただけるとより子供の力が伸びていってくれることと思います。

 

パターンA
 

 子供たちは、多くの体験を通して成長をしていきます。学芸会などの行事が行われるのは、そのためです。子供たちは、知識・理解だけでは心が成長してくれないからです。子供たちは、体験を通して本当の自分を発見します。それによって心にエネルギーを蓄えていきます。ですから、子供たちに価値ある体験をさせることが大切です。
 先日、6年生の総合的な学習の時間として「商店街大作戦」が行われました。これは、毎年商店街のお店に3〜5人のグループに分かれて就業体験をするという取り組みです。多くの経験を通して生きる知恵を身につけようとするのが総合的な学習です。
 つい10年位前までの教育は、効率よく教え込む指導が主流でした。そのため、教科も細分化され、知識を詰め込まれた子供たちが拒否反応を起こした結果多くのひずみが生まれてきました。
 そこで、知識の統合をし、子供たちの知恵として生きて働くよう子供たちが常に自分で考え判断していくことのできる学習が必要になりました。総合学習はその解決策であるともいえます。
 この考え方は、他の教科でも同様に進められるわけです。たとえば今年度研究教科の算数でいえば「子供たちが算数を作る」過程を大切にして考える力をそだてていこうとすることといえます。これは、ただ問題の解き方を一方的に教え込むのではなく、先人が編み出した効率のよい解き方を追体験することで考える力を育てようとするものです。
 先日、本校で行われた研修会で理学博士 品田穣先生のお話を聞く機会がありました。先生は、
「総合的な学習は、ヒトの暮らしや生きものの暮らしから、子供が自ら課題を発見し、考え、解決していくプログラムをどうつくるかが問題だ。しかし、その前に子供が自ら課題を発見する準備として、主体的に行動する原体験が重要だ。」と話されました。
 これには私も同感で、自分自身も子供の頃の体験が今も生きているなと思うことがしばしばあります。闇夜や川原を歩いたこと、魚やザリガニ、うなぎなどを取ったこと、空き地に隠れ家を作ったことなどすべて自分で考え、判断する必要がありました。
 子供の頃に原体験をしていると大人になってからもストレスを感じにくいという話も聞いたことがあります。これは、人間も動物としての生きる本能を原体験を通して体感することによって野性的な強さを身に付けるということかもしれません。
 学校では、意図的・計画的な教育活動を行うことによって子供たちに多くの経験をさせ子供たちに生きる力を育てようとしています。ご家庭でも学校ではできない体験を多く積ませていただけるとより子供の力が伸びていってくれることと思います。
 「知識は、人生を楽しむもの。英智は、人生を乗り切るもの。」と本で読んだことを思い出しました。子供たちが、この言葉を実感してくれるよう私たち大人が協力体制を強めていかなくては、と考えています。

掲載 2020.11.9

子供の心を受けとめる

                     

 ここのところ新聞記事には子供のことについての事件が多く扱われています。成人式や暴走族、ホームレス殺害事件等悪いことはすぐに記事になります。そんな時、私が常々思うことは、もっと子供たちの心を受けとめる必要があるのではないかということです。
 この頃、私が子供と話していて気づくことがあります。子供が予想以上に大人に対して気を遣っているということです。子供の口から不満や要望が出た時、「家の人(先生)に言ってごらん。」と助言すると、「そんなことお母さんに(先生)に言えるわけないよ。」という返事が返ってきます。また、「お母さんに(先生)に言っても聞いてくれないもの」と言う子もいます。
私たち大人は、つい忙しさにかまけて子供の話に真剣に耳を傾けないことが多くあるのではないでしょうか。
 昔、女の先生から「忙しい時や子供が一緒にいたいのにいられない時は、いつもより少し長く抱き締めてあげる。そして、あとで話を聞く約束をする。」という話を聞いたことを思い出します。
 いくら大きくなったとはいえ、小学生までは、スキンシップを十分にしながら話し合う必要があると思います。
 私は、なるべく子供の目を見て話を聞くように努めています。なぜなら、相手の立場になって真剣に聞いてあげないと「どうせ私の話なんか聞いてくれないのだからもういいや。」とあきらめてしまい二度と話してはくれないからです。
 これは、親子の間でも同じことです。たいして重要でないと思われる話でも「そうか、そうか」と、相手の気持ちに共感しながら、一所懸命聞いてあげる態度が大切なのです。たとえ5分間でも10分間でも親が真剣に話を聞いてくれれば子供は嬉しいのです。そうしているうちに、なんでも心を開いて話してくれるようになります。
 自分を含め子供の周りにいる大人は、もっと子供と心を開いて本音で話し合える関係を作っていかなくてはと思います。子供の心を受けとめるため、まずは、子供の話を真剣に聞くことから始めてみようではありませんか。
 学校でも、できる限り子供たちとの触合いを図り、子供たちの心を受けとめていくことができるよう努力してまいります。

掲載 2020.10.16

読書は、心のエネルギー

 秋は、運動や読書など何をするにも良い季節です。最近、子供の読書離れが問題にもなっていることでもありますので、子供の読書について考えてみたいと思います。
 私は、常々読書とは、自己との対話だと思っております。人間の心は、多くの経験によって育っていくものです。読書によって自己と対話することによって人間の心も成長するのではないでしょうか。心が成長せず、心を支えるものが何もなければ、苦しみ、悲しみ、怒り等を乗り越えていくことはできません。ですから、読書は心のエネルギーとも言えるのです。
 今、すぐにキレてしまう若者達は、自己との対話をどのくらいしてきたのでしょうか。アメリカでの例では、識字力が低いと暴力的になるという実態が明らかになっています。人間は、言葉でものを考えます。だから、語彙が少ないと自分を主張するためには、暴力に頼るしかなくなるというのです。
 4年前、テレビで「皇后陛下美智子さまの読書の思い出」の放送を視聴し、とても感銘を受けました。そこで、美智子さまは、「悲しみが殻にいっぱいあると悩むでんでん虫が、それは、誰にもあることを知る。」というお話を今でも思い出されると語られました。そして、子供は本の中の悲しみをいっぱい知るが、子供は不思議なバランスを示し、悲しみと共に喜びをも見いだすとも語っておられました。
 また、子供は、まず読みたいという気持ちが大切だともおっしゃられて、ハイジがクララから貰った本を読んでみたいと思い、おばあさんに読んであげたいという気持ちと重なって、一冊の本を読み通した事を例にあげておられました。これは子供たちの読書指導によいヒントを与えてくれていると思います。
 本校でも18日(金)より読書旬間が始まります。期間中、地域図書館の協力を得て、読書会を開いています。子供たちは、それを本当に楽しみにしています。このような、読み聞かせも子供が読書に興味をもつ、一つの方法です。
この秋、本校の多くの子供たちが読書に興味をもち、本に親しんでくれることを期待しています。。そして、子供たちの心にエネルギーがいっぱい蓄えられることを願っております。

掲載 2020.10.10

2003年9月 TVで観た番組について

 みんなに考えてもらいたいことがあるので、TVで観た番組について話します。
 私が見ていた番組のダン・ケプリンガー君は、言葉も身体も不自由であり、電動車椅子と多くの人の力を借りて生きています。
 現在25才の彼は、母親から独立して大学院で学びながらヘッドギアに取り付けた筆で絵を描いています。彼の絵は、人間の心の奥底を見つめているような絵でした。私も実際に一回見てみたいと思いました。
 彼は、知的障害ではなくて肢体不自由なので、能力は高いのです。しかし、一般の人たちにはそれもきっと分からないのでしょう。彼は、生まれるとき酸欠になって脳に酸素が行き渡らずに障害者となりました。だから、脳からの命令がスムーズに身体に行き渡りません。それでばたばた暴れているように動くのです。
 余談ですが、息子が生まれたとき、産道の途中で一回止まってしまって、生まれて来たとき頭がフットボールみたいに細長くなっていました。私は、異常出産によっての障害が多いことを知っていましたから、とても心配しました。これも余談ですが、私は、三度神様に「自分の命を短くしてもいいですから、救けてください。」と祈ったときがあります。この時と、娘が病気で入院して治療のため大声で泣き叫んでいた時と、教え子が白血病で余命があまりないと聞かされた時の三回です。だから、早く死んでもしかたがないなと思っています。
 さて、彼の話に戻りますが、彼は健常者と同じ高校に通い、そこで出会った絵を描くことに闘志を燃やします。本当に闘志をもって戦わなくては、彼には絵が描けないからです。そこには、冷ややかな人間の目が描かれているように感じました。大学の卒業式の時、お母さんと抱き合って喜んでいる場面が映りましたが、その横で写真を撮っていた大人が、二人を見る「なんだこいつは」という目がそれではないかと思いました。
 私は、分かったようなことを言っていますが、私の心の中にもこの大人と同じような蔑視の気持ちがあるのではないかと思います。実際に何も私は行動していないので、大きなことは言えないとも思います。だけど、私は、この時つい泣いてしまいました。やっぱり悔しいし、彼はとてもすごいと感動したからです。
 なんでこんなこと書いているかというと、この番組の最後に肢体不自由者の「なんで」という詩が紹介されたからです。「なんで やさしくするの ママが やさしくすると ぼくが 大きくなれないんだよ」という詩でした。すごいよね。わたしたち健常者には、言えない言葉だと思いました。
 わたしたちは、つい「やさしさ」を求めてしまいます。私だって、家族のやさしさ、学校にいる人のやさしさ、あらゆる人からのやさしさを求めてしまいます。そして、周りにいる人からのやさしさも求めたくなってしまいます。だから、君たちにも「やさしさ」について考えてもらいたいと思ったのです。
 もう一つTVで観ていたことを紹介します。本の紹介番組を視ていたんだけど、最後にいつも女の子が、本を読むのです。その本の中で、女の子は、自分のお母さんを探すんだけど、その時、お母さんのこと世界一美しいと言うんだ。そのお母さんは、誰よりも美しいっていうわけじゃないんだけど。その時、村長さんが、「美しいから好きになったんじゃなくて、好きだから美しいんだよ。」と言うんです。これ、どう思うかな。
 私は、子供じゃないから、自分の母親のことそうは思わないけど。自分の愛する人のことは、他の人よりずっと美しく感じているとは思う。だから、愛すること、愛されることは、人間を美しくすると思うんだな。このことも、考えておいてね。

掲載 2020.9.26

「ハチドリのひとしずく」

美しい鳥の図鑑を見ているとハチドリが出ていて、昔子供たちに話したハチドリの話を思い出しました。
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 南米・アンデス地方の先住民族に伝わる民話で、燃えさかる森にハチドリが一滴ずつ水を落としていくという短い短い、そして気の遠くなるようなお話です。
 この人間世界から見れば、小さく無力のように思える小さな生き物たち。環境を破壊することは一瞬で簡単なことです。人間だって宇宙から見ればハチドリのようなものだけど、そんな自分でもコツコツと出来ることがあるかも知れない。
 現代の営利及び物質至上主義では一足飛びのシステムはあるかも知れないが、自然においては一切、一足飛びのシステムはありえないということを古代の人々、そしてハチドリは現代にそ伝え教えてるのではないだろうか。
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ハチドリ計画〜ポトリとは(教員用)

ポトリ活動
『環境は未来からの預かり物』 ☆ネイティブアメリカンの中で古くから受け継がれている言葉です。
「自然(地球)は過去からの贈り物ではない、未来からの預かりものなのだ」という考え方の原点は、ハチドリの物語!
 CO2 100gを減らすためのひとしずく(行動)を「1ポトリ」と呼ぶことにした活動です。
ハチドリ計画HPより内容を紹介します。環境学習、学級指導等で使ってください。
 2005年に「京都議定書」が発効された。日本は、2008年から2012年の5年間で1990年比で6%の削減を世界に約束した。ところが、1990年以降もCO2は増え続けている。
 京都の約束を守るために、日本は14%減をめざす必要がある。自分の暮らしの中で、できることを考えてみよう。たとえば、日本人が1日に出すCO2は、平均7000g。
7000g×14%=980g(9.8ポトリ)1日10ポトリを集めることから始めてみよう。

 

ポトリ換算例 <参考:ハチドリ計画HP>
 アイドリングストップを5分する           1.1ポトリ
 3kmの移動をタクシーのかわりに地下鉄を使う    12  ポトリ
 レジ袋1枚もらうのをやめる              0.9ポトリ
 食品トレーを10枚リサイクルする           1  ポトリ
 ペットボトルの使い捨てを1本やめる          1.4ポトリ
 お茶碗1杯の食べ残しをやめる             0.8ポトリ
 シャンプーを詰替タイプにする             1.3ポトリ
 家族で資源物を正しく分別する             3.5ポトリ
 1週間のごみの量を5kg減らす             0.6ポトリ
 冷房を27度から28度にする              0.5ポトリ
 冷蔵庫の詰め込みすぎをやめる            0.7ポトリ
 テレビをみる時間を1日3時間減らす         1.2ポトリ
 ジャーの保温をやめる                0.8ポトリ
 使わない機器の主電源はオフにする          0.7ポトリ
 シャワーを1日1分短くする              0.7ポトリ
 オーストラリア産アスパラ1本を、国産のものに変える 4.1ポトリ
 アメリカ産レタス1個を、国産のものに変える      3.6ポトリ
 タイ産鶏モモ肉200gを、国産のものに変える     0.3ポトリ
 中国産の大根1本を、国産のものに変える       1.8ポトリ

 

他にもできるこんなこと・・・
マイ箸を持ち歩く:1年間に250億膳が使い捨てに。健康にも環境にも悪い。
自動販売機をボイコットする:全国に555万台ある自動販売機。温暖化に貢献?
フェアトレード商品を選ぶ:生産者たちの健全な経済発展を応援しよう。
木を植える:森の再生につながる。

 

掲載 2020.9.24

「よさがわかると子供は変わる」 学校だよりより

 子供たちのアンケートで気になるところがありましたので、考えてみたいと思います。
子供たちは、「7,すきなものやとくいなことがありますか。」という質問にはよい回答をしているのに、「8,自分のよいところがわかりますか。」という質問にはあまりよい回答をしていないというところです。
 すきなものやとくいなことがあると、自分という人間に自信をもつことができます。自己有用感も高く、夢や希望をもつことに繋がるよい傾向だと思います。子供たちは、自分を肯定的に見ようとしていることが分かります。
 しかし、自分のよいところがわからないということは、「子供のよさ・可能性を生かし豊かな心を育てる」という本校の研究主題の達成が、まだ十分でないということのようです。このことを私たちは真摯に受け止め、改善していかなくてはならないと思いました。 これは、周りの大人たちが子供たちのよいところを見付け、認めたりほめたりしていないからだといえるのではないでしょうか。自分ではなかなか自分のよいところを見付けられないものなのですから。
 短所も見方によれば長所になります。気の小さい子には「慎重に判断して行動することはよい性格だと思うよ。」と言ってあげると安心するでしょう。また、見方を変えて、「私は、鼻が低くていやだ。」という子には「でも、目は輝いていて美しいから私は好きだな。」とよいところを見付けてあげればいいのです。自分のよいところがわからないということは、よいところの見方が十分でないのです。
 人間は、好かれたことがないと自分を好きになれず、自分を好きになれないと他人を好きにはなれません。自分が好きな人は、他人も好きになれるのです。しかし、欠点ばかり指摘されているとだんだん自分が嫌いになってしまいます。そうすると他人の欠点ばかりを指摘するような人間になってしまいます。子供は、自分のよいところが分かり、自分に自信がもてると自分を好きになれるのです。
 良さが分かると子供は変わります。学校では、子供のよいところを見付けその子自身に知らせることや子供を丸ごと好きになってあげることで、子供自身が自分を好きになってくれることを願っています。それには、まず私たち自身が「自分を好きになり」「人に好かれ」「人を好きになる」ことから始めなくてはならないと、今改めて感じています。

掲載 2020.9.22

「迷惑をかけなければそれでいいの?」学校だよりより

 よく「人に迷惑をかけてはいけない」と言われます。私もそのことはとても大事なことだと思います。一方で「ひとは、人に迷惑をかけながら生きている」のも事実だと思います。なぜなら、社会生活を営む上で私たちは知らず知らずのうちに誰かのお世話になっています。その際、迷惑をかけてしまっていることがあるのではないかと思います。しかし、私たちは、つい一人で生きているという錯覚にとらわれてしまっているのではないでしょうか。
 先日、電車の中で化粧をしている女の人を見て、考えてしまいました。本人は、周りに迷惑をかけているとか不快な気分にさせているとは思っていないのでしょう。私は、そういう様子を見て違和感を感じてしまいます。皆様は、どうお考えになりますか。
 私は、公共の場では人を不快にするようなことたとえば電車の中でものを食べたり、大声を出したりしないように躾られてきました。私たちは、年齢に応じた躾を受けてきたことで、社会生活を営む知恵を身に付けてきたのです。価値観が多様になったとしても、たしなみはいつの時代でも変わらないはずです。
 私は、学級担任のとき、「人に迷惑をかけない」ということを学級経営の第一の柱にしました。
 具体的には、「友達がいやということはしない」という学級のルールをつくりました。そして、いやなことは、「いや」と言うことを指導しました。
 まず、人のいやがることはしてはいけないことを身に付けさせなければならないという考えからです。このことで、多くの場面で子供たちは、自力でトラブルを解決できるようになりました。
 しかし、学校生活をしているとどうしても友達にお世話になったり、迷惑をかけてしまったりすることがあります。
 そこで、「人の役に立とう」「人と助け合おう」ということを学級経営の第二の柱としました。
 具体的には、「人に迷惑をかけたり、お世話になったときは、自分から人の役に立つことや人を助けることをするように。」という指導をしました。
 「人に迷惑をかけないようにしよう」という考えだけでなく「私たちは、多くの人の支えで生きている。だから、私たちも友達と助け合おう、身近な人のために役立とう。」と考えるような子供を育てたいと考えていたからです。
 私たちは、一人で生きているのではなく、お互いのかかわり合いの中で学びそして社会での生き方を身に付けていきます。
 子供たちが身に付けた学級での生き方が、学級から学校へ学校から社会へと広がっていくことで世の中に役立とうする人間が育っていってくれると思います。私は、本校の子供たちにもそのことを期待して指導していきたいと思います。

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