シリーズ 自己判断力を育てる
(その1)指示を出す前に考えさせよう
本校では、週番が休み時間に巡回して、気になる子供の行動があると声かけをしています。その週番日誌に3日間同じ事が書いてありました。「チャイムが鳴っても教室に帰らない子がいるので、声をかけると素直に教室に入りました。」というものです。
みなさんだったら、この記事を読んでどう思いますか。私は、これは大変だと思いました。チャイムで教室に帰ることになっているのに、帰らないのですから。
そこで、私は、「教室に入らない子供たちに声かけをしないでください。」と教員にお願いしました。なぜなら、声がかからないと教室に帰らない子を育ててしまうからです。私は、指示をされないとできない子供たちを大勢見てきました。その子たちのほとんどは、子供自身が自分から行動する前に大人から先に指示を出されている子供たちでした。
なんでも指示をしていると、言われないとできない子になります。なんでも注意をしていると、注意しても聞かない子になります。さらに、そのことを助長する大人もいます。公共の場で騒いでいる子に注意をして「怖い人に叱られるからやめなさい」と言われ、変だと思った方はいませんか。そうして育った子は、なんでも人のせいにするようになります。
ですから、私はまず、子供に「いいことか、悪いことか」を考えさせたいと思います。その価値判断は「命」「人権」「迷惑」です。そして、「経験がないこと」については教えればいいのです。そうすることで、「自己判断力」が少し育つのではないかと思います。さらに、「自己判断力」を育てるためにきまりをなるべく少なくしたり、叱る前に考えさせたり、悪いことより良いことに目を向けさせたりということをしたいと考えています。
(その2) 子供の人格を否定しないで、行為を叱る
先日、管理人夫婦殺害事件で15歳の長男逮捕の記事をご覧になったことと思います。今回の事件の内容は、皆さんよくご存じのところだと思いますので、省かせていただきます。その中で、その少年の「前日に、父から『俺より頭が悪い』と言われた。馬鹿にしたので殺してやろうと思った。」と言う言葉が印象に残りました。
これまで、同様の犯罪が数多く起きています。今までは「考えられない」と言っていたのが、もう、当たり前に起こっています。それらの事件に共通する部分があります。それは、事件を起こした少年たちが「人格を否定される」ような言葉を浴びていることです。
人格を否定されてしまうので、子供はキレてしまうのではないでしょうか。
それは、「おまえは馬鹿だ。」「おまえのようなやつは・・・・」など人間としての存在を否定するような言葉かけです。子供にも人権があります。親の私物ではありません。今回の事件でも、殺された親は、まるで自分のもののように子供を扱って、子供を追い込んでしまっています。
この子のようではないにしても、自分が馬鹿にされて育ったと思う子は、自分が好きになれません。そして、自分の置かれた状況を憂い、「社会が悪い。周りの人間が悪い。」と言うようになっていくのではないでしょうか。
では、どうすれば良いのでしょう。私は、子供に注意するのであれば、やったことを叱る事だと思います。「子供の人格を否定しないで、行為を叱る」のです。だから、「あなたは悪くはない。あなたのしたことは悪い。」と言うべきだと思うのです。そして、理由を聞かず、「悪いことは、悪い」ことを教えたいと思います。理由を聞くと子供は、自分を正当化しかねません。今回の事件でも、理由を聞かれて、少年はまるで殺された両親の方が悪いとでも言っているようです。
この少年のように善し悪しの判断がつかないのは、自己判断力を育てる以前の問題です。自己判断力を育てるために、我々大人が、まず気を付けなくてはならないことは、「子供の人格を否定しないで、行為を叱ること」だと思うのです。
(その3) 善悪の判断も任せよう
先月号に「自己判断力を育てることも子供が本来持っている生きるエネルギーを引き出すための一つの方法です。」と書きました。自己判断力を育てることの一つに、善悪の判断をすることがあります。
先月12日に4年生の秩父移動教室から帰ってくると、校庭の一部40cm四方程度の地面塗装が剥がされていました。次の日に担任から子供に聞いてもらうと、5人の子供たちが私のところに謝りに来ました。その時に話したことです。
「何をしたの?」と、剥がれた塊を見せて聞くと
「足で蹴っていたら、剥がれたので剥がして投げました。」
「なんでそんなことをしたの?」
「楽しかったから。」
「そのとき、楽しいと言う気持ちの他に何か考えなかった?」
「ちょっと、悪い気がした。」
「そうか。ちょっと悪い気がしたのか。楽しいと思ったことでもちょっとでも悪いかなと思ったことだったら悪いことなんだから、やってはいけないんだよ。だったら、これからもし楽しいと思ったことでもちょっとでも悪いことかなと思ったらやらないようにしようね。約束してくれるかな。」
「はい、約束します。」
この「ちょっと、悪い気がした。」と子供が感じたことが大事です。子供たちは、自分の中で価値判断をつくろうとしています。その時、大人ができることは、規範を押しつけることではなく、自分で気付かせることではないでしょうか。私はまず、子供に「いいことか、悪いことか」を考えさせたいと思います。
学校では今、学校のきまりを子供に話し合わせたり、考えさせたりしながら再確認をしようとしています。そして、子供が悪いことより良いことに目を向けることができるようにさせていきたいと思います。もっと子供を信頼し、判断させることを多くしたいと考えています。
1学期
あいさつ(その1)
子供が学校外で活動することが多くなり、いろいろな人との接点が増えてくることと思います。そのときに必要となるのが「あいさつ」です。
人間生活を送るのにあいさつが必要なわけは、あいさつをする事によって人間同士が交流の準備をするからです。人間は、言葉によって心を通わせようとして、まず、あいさつをするのです。
たとえば、「おはよう」は、朝起きたときに体を伸ばして深呼吸をすると身体が目覚めるように人間関係を作ろうとする意識を目覚めさせます。
「ありがとう」「ごめんなさい」などは、言葉に出さないと気持ちが伝わりません。皆様には常識でしょうが、夫婦間など近しい間柄でも気持ちを伝える大切な言葉のコミュニケーションです。
また、いつもは「あいさつ」する子が、しなくなったとしたら、子供の心に何かが起こったと言うことがわかります。「あいさつ」は、心のバロメーターとも言えるのです。
あいさつ(その2)
学校では、この2週間「元気よくあいさつをしよう」という生活目標に取り組みました。
しかし、まだその目標は達成できないでいます。元気のいい挨拶をする子供たちは、大勢いますが、まったく人のことが目に入らないような子もいます。特に、「さようなら」は言えるのですが、「おはよう」が言えない子が多いようです。
その理由として、前者は具体的なレベルでの教育が身に付いていないため、後者は朝は人間関係を結ぶための準備ができていないが、帰りは学校生活で人間同士の付き合いが行われ、気持ちを表せるようになっているためだと思います。
江戸風俗研究家の杉浦日向子さんが、「江戸時代の教育は、朝、昼、晩の挨拶ができて、ありがとうとごめんなさいが言えれば、それでOKでした。」と、言っています。なんと具体的な子育ての技術でしょうか。
「立派な人間になれ」と、言うより、「挨拶ができる人間になれ」と言う方がよっぽど具体的な行動レベルの話ですから、子供を具体的に教育するよい目標です。
学校では、これからも子供が「あいさつ」を身に付けられるように「目を見て」「名前を呼びかけて」など具体的に指導していく考えです。ご家庭でもぜひお子さんと心を通わせる第一歩として習慣化を図っていただければと思います。
「あいさつは心を写す鏡」
新年度が始まって1ヶ月が過ぎました。
子供たちの元気な声が学校中に響き渡っています。学校に来る日が週5日となり、2日間がお休みとなりました。子供が学校外で活動することが多くなり、いろいろな人との接点が増えてくることと思います。そのときに必要となるのが「あいさつ」です。
目は、心の窓と言いますが、あいさつは心を写す鏡といえましょう。明るく元気にあいさつする子は、とても健康で心が育っていると感じます。同時に、その子が育つ家庭の様子も目に浮かぶようです。家でも家族同士が明るくあいさつを交わし、心を通わせることのできるよい家庭が、想像されます。
私も昔は、仕事に疲れて帰るとついあいさつもせずにいることがありました。自分は、働いているんだぞというおごりがあったのでしょう。
しかし、「家庭に閉じこもって家事と子供の世話ばかりしていることとどちらが大変か」と妻に言われたとき、確かに自分の方が恵まれているのかもしれないと考えるようになりました。
そして、家庭に帰ったときぐらいは家族が明るくあいさつを交わせるようにしよう。それには、まず、自分からあいさつをしようと思うようになりました。実際にあいさつをすると、疲れている時も、元気が回復し、心が軽くなる感じになりました。
また、これは自分の子供が小学生の時のことですが、急にあいさつをしなくなった時がありました。いつも元気にあいさつをするのにどうしたのだろうと思って聞いてみたら、どうも友達にいじめられていたようです。そのときは、相手が知り合いの子供だったので、話し合わせて解決できましたが、もし根深くなったいたら大変なことでした。
いつもは「あいさつ」する子が、しなくなったとしたら、子供の心に何かが起こったと言うことがわかります。「あいさつ」は、心のバロメーターとも言えるのです。
家の中で一人でもあいさつができないと家庭が暗く感じられるように、学校でも誰か一人でもあいさつができないと私は心配してしまいます。
何かあったんじゃないだろうか、いやなことがあるんじゃないか、学校が楽しくないのじゃないだろうか、と考えてしまいます。
学校のテーマに「笑顔であいさつをしましょう」とあります。つい見過ごしがちになりますが、学校に来る人すべてが笑顔であいさつする事ができれば、すばらしいことです。これを学校の財産とするためみんなで努力していきたいものです。
子供たちとの出会いは感動を呼ぶ
パターン@
新学期が始まり1ヶ月が経とうとしています。1年生には新しい経験が多くあると思い
ます。私にも新しい出会いがあり、発見があり、感動があります。新しい校長先生はどのように学校運営するのだろうか?新しく来た先生たちは、子供のよさを見とってくれるだろうか?などと考えていますと、なおさら発見と感動が強くあります。
朝、昇降口に立っていると子供たちは、元気に挨拶をしてくれたり、ハイタッチをしていってくれたりします。子供たちと接していても毎日発見があります。6年生の○○君は、1年生と手をつないで登校してきます。急にお兄さんになったようです。5年の□□さんは、明るく挨拶をしてくれて、こちらまで1日が楽しくなってしまいます。
1学年進級するだけで、動きも顔つきも変わってきます。6年生が最高学年としてよく手伝い、下級生のためにがんばっています。今日も縦割り班活動で低学年の世話を生き生きと行っている6年生の顔が輝いていました。学校の顔として活動する6年生一人一人を発見する毎日です。なんと素敵なことでしょうか。6日からの移動教室もきっと充実したものとなることでしょう。
今、うちの家でつるバラが咲こうとしています。昨年よりも多くの蕾をつけているので楽しみです。しかし、山ぼうしの木は、葉が繁っているだけです。これは、肥料のやりすぎてしまったせいだと考えられます。子供も同じでそれぞれに特徴があります。固定的にとらえず、あるがままを受け止め、その成長を認めていきたいものです。
ムツゴロウの愛称で親しまれている畑正憲さんは、「自分の生涯を振り返ると、動物を素直受けとめ、真正面から相対し、夢中になって過ごした時、動物は心を開いてくれた。いい加減にするのはよろしくない。“何とまあ美しい。”“何とすてきなんだ。”と相手の長所に惚れ、ある種の尊敬を払うのが動物の世界の扉を開けるキーだと思うようになった。」と言っています。
子供は、畑さんと接している動物とは同じではありませんが、接する気もちは同じでなくてはならないと思います。まず、私たちが、どの子供に対しても「何と素敵」と良いところを見付ける努力をしていけば、子供たちも周りに対して「素敵だ」「すごい」といってくれる気がしています。
私たちは、つい仕事に慣れてしまうことがあります。しかし、子供は変化しているのです。社会の変化に対応して、子供は自分なりの世界を作って行きます。私たちは常に子供と真正面から相対し、感動を共有しない限り子供の世界を開くことはできないのです。
また、畑さんは、次のようにも書いています。「コミュニケーションの度合いが強くなると、動物(人の子供と置き換えていただいてかまわないが)は心を全開にして向き合い、命を賭ける傾向がある。このような時には、全力で、魂ごと相手にぶつかった方が絶対にうまくいく。命と命が激しく触れ合うべきだし、生きているという事実を共有すべきだ。二度と再現出来ないもの。一期一会。彼と自分だけが創り出し得た、熱い一瞬。そのような感じがこめられれば、プラスにこそなれ、大きな間違いをしないで済むだろう。」と。
確かに教育には理屈ではできないところがあります。それを理屈ばかりで考えていると、自分の知っていることが最上だと錯覚し、それを他人に押しつけるようになってしまいます。もともと一人ずつ違うものを型にはめこまなくては満足しなくなってしまいます。親と子の関係や先生と子供との関係はこうあるべきだと型を作らないと不安になってくるのです。
私たち教師も、新学期での子供たちとの出会を一期一会とし新しい感動を呼び起こしていけるよう努力していきたいと考えております。
パターンA
新学期が始まり1ヶ月が経とうとしています。1年生には新しい経験ばかりでしょうが、私たち教職員にも新しい出会いがあり、新しい発見があり、新しい感動があります。特に、子供を教育するには、慣れはあまり歓迎できません。経験は生かすべきですが、私たちが相手にしているのは人間であり、人間は皆同じではないからです。
私たちは、つい仕事に慣れてしまうことがあります。しかし、子供は変化しているのです。社会の変化に対応して、子供は自分なりの世界を作って行きます。私たちは常に子供と真正面から相対し、感動を共有しない限り子供の世界を開くことはできないのです。
確かに教育には理屈ではできないところがあります。それを理屈ばかりで考えていると、自分の知っていることが最上だと錯覚し、それを他人に押しつけるようになってしまいます。もともと一人ずつ違うものを型にはめこまなくては満足しなくなってしまいます。親と子の関係や先生と子供との関係はこうあるべきだと型を作らないと不安になってくるのです。
先日、ムツゴロウの愛称で親しまれている畑正憲さんの本を読んで、私たちの教育の営みも同じではないかと思いました。
畑さんは、自分の生涯を振り返ると、動物を馬鹿にせず、真正面から相対し、夢中になって過ごした時、動物は心を開いてくれた。いい加減にあしらうのはよろしくない。力で上に立とうと考えている内はビギナーと言っていい。 “何とまあ美しい。” “何とすてきなんだ。”相手の長所に惚れ、ある種の尊敬を払うのが動物の世界の扉を開けるキーだと思うようになった。」と書いています。
また、畑さんは、次のようにも書いています。「コミュニケーションの度合いが強くなると、動物(人の子供と置き換えていただいてかまわないが)は心を全開にして向き合い、命を賭ける傾向がある。このような時には、全力で、魂ごと相手にぶつかった方が絶対にうまくいく。命と命が激しく触れ合うべきだし、生きているという事実を共有すべきだ。二度と再現出来ないもの。一期一会。彼と自分だけが創り出し得た、熱い一瞬。そのような感じがこめられれば、プラスにこそなれ、大きな間違いをしないで済むだろう。」と。
私たち教師も、新学期での子供たちとの出会を一期一会とし新しい感動を呼び起こしていけるよう努力していきたいと考えております。
2学期
ほんのちょっとの努力を
障害者スポーツの祭典パラリンピックについて考えました。そこで活躍した人たちは、生き生きとして輝いています。なぜだろうと考えると、きっと努力しているからだろうと思うのです。健常者でも努力しないで、不満ばかり言っている人は、生き生きとはしていません。
そんなことを考えていたとき思い出したのは、長野オリンピックでテストジャンパー(競技開始前に試技をする)20番としてK点越えの131メートルを飛んだ高橋竜二君のことです。
彼は、耳が聞こえないのです。耳は、バランス感覚に大きく影響するので、ジャンプするだけでも奇跡のようなものなのです。それなのに、彼は、自分が障害者だからといって少しもめげずに、優勝してもいいくらいのジャンプをしたのです。
「長野オリンピックへ」それが彼の夢だったのです。「僕は、耳は聞こえないですけど、飛ぶことは同じだと思っていますから。」とたどたどしい口調で彼は言うのです。なぜたどたどしいかと言うと、耳が聞こえないということは、自分の言葉も聞こえないので、しゃべることも難しいからです。
彼は、どれほどの努力をしたのでしょうか。とても、私には想像できません。彼は平然と言うのです。「挑戦なくして、成し遂げられた偉業は一つもない。」と。 だが、今の子供たちは、なにかを乗り越える必要を感じることがあまりありません。だから、挑戦することも少なくなっています。そして、他人と比べられ、そんな自分を嫌いになることもあるのです。
子供たちと接するとき、私は、まず「君は、君のままでいいんだよ。私は、君が好きなんだから。かっこつけなくていいよ。」って言います。自分を好きになってほしいからです。子供と心が通い合うことができるようになったら「一人で生きる力を付けないと人と共に生きることはできないよ。だから、ちょっとだけがんばろうね。」って言います。そして、ほんの少し努力すればできることに挑戦させます。そして、できたらほめます。少しでも努力したことをほめられたことで、また次の努力をします。私は、その積み重ねが努力する子供をつくっていくと思うのです。
挑戦する気持ちがなくて挑戦はできません。そして、また、私は、反芻するのです。「自分は、なにを努力しているのか。なにに挑戦しているのか。」と。私の大好きな言葉「努力するものは、希望を語り。怠けるものは、不満を語る。」という言葉を思い出しながら。
「働く」ということ
展覧会には多くの皆様のご参観をいただきありがとうございました。子供たちの作品は、どれもエネルギッシュに自分が表現され素晴らしいものでした。また、本校の展覧会の特色でもある「ワークショップ」や「ミニミニコンサート」でも子供たちが生き生きと活動し、喜びを体一杯に表していました。
さて、11月2日(金)に6年生の総合的な学習の時間として「商店街大作戦」が行われました。これは、商店街のお店に3〜5人のグループに分かれて就業体験をするという取り組みです。
子供たちの学習の流れは、@「働く」ということについて考える。A家族に「働く」ということについてインタビューする。B体験させていただくお店の仕事を観察させてもらう。C自分にできる仕事は何か考え、めあてを立てる。Dお店で働かせてもらう。E体験の様子をまとめる。Fお店の方に感謝の気持ちを伝える。G「働く」ということについて考えをまとめる。というものです。 わたしは、@の時に子供に聞かれ、「仕事は、見付けてやるもの」などと言ったもので、子供たちがどう考えていくのかとても興味がありました。しかし、もうすでにその段階で子供たちは「働くのは、人のためになること」という考えを出してくれていました。なんて凄い子供たちでしょう。
その後、実際に体験し、子供たちは「働く」ということについてしっかりした考えをもてたようです。最終段階Gでの子供の考えをいくつか紹介しましょう。
「大変だけど生きるためなんだ」「人のため自分のために働くんだ」「その人の実力・技術がためされる」「大変な仕事だけれどお客のよろこぶ顔を見るため働く」「苦労して自分の能力生かすもの」「喜び楽しみには苦労がついてくる」「好きなことの仕事をすれば人生幸せ」「人に喜んでもらえるためにがんばる」「利益を得るということは、工夫をするということ」「働けば、心をくだき緊張し、喜び、うれしさともに感じる」
また、家族の方のインタビューから「お父さんは、何かをやりとげたという充実感があると言っていました。その充実感からもまたがんばろうというやる気がでて楽しく働けるんだと思いました。」という考えを書いた子もいました。
大人の生き様が子供の仕事や働くことへの考えを育ててくれるのだとつくづく考えさせられました。そして、仕事に対して子供たちが前向きに育ってくれていることを頼もしく感じました。
それにしても、お忙しいところ子供たちに就業体験という貴重な経験をさせていただいた商店会長様並びに商店の皆様方には、心よりお礼を申し上げたいと思います。本校が地域の皆様方のご協力とご支援により成り立っており、子供たちがよりよく育っていることに感謝いたしております。本当に、ありがとうございました。
3学期
脳の話
電車の中で「シゴトが幸せでないと、人生も幸せじゃない」というキャッチコピーを見ました。そこで思い出したのが、時実利彦先生の脳の話です。
1.人間の本質とは
脳の仕組みの中で、人間の本質を求めると、いろいろ入ってきた情報を考え、推理し、そしてこうしようと意志決定する。これが、人間の本質で、その働きをするのが前頭葉です。
動物にはこの前頭葉がないので、創る喜びも時間の感覚もありません。だから、
次の日のことを考えて行動するということがありません。明日があるのは人間だけです。人間の行いは、いつも未来にむかっての行いなのです。
ですから、人間だけが、未来に希望をもち、将来に計画を立てて生きていくことができるのです。計画が実現されていくときに、喜びを感じ、幸福を体験するのです。創りだし、仕事をし、その中に喜びを体得するのが人間の本質なのです。
2.人間は、教育され得る動物である。
オオカミに育てられた少女の話をご存じでしょうが、人間もオオカミに育てられるとオオカミになり、人間に育てられると人間になります。動物は、どんなに保育し教育してもその動物以外のものにはなりませんが、人間は保育や教育の仕方でなんとでもなり得る可能性をもっています。
もともと人間には、創造性や働く意欲があります。なにかの障害でそれが抑えられているのですから、その障害を取り除いてやればいいのです。
0〜3歳では親の後ろ姿、横顔を見て育っています。親が人間らしい、はずかしくない行動をしているかどうかが問題です。5〜6歳主体性が出てきますので自主性や意欲を育てます。親があてがいぶちの配線図を押しつけるたびに、子どもの大脳の中で細胞のよりよいからみあいの可能性が失われていきます。3回目の発達期の10歳前後は、意欲と訓練につきます。目標を立てて苦しくとも進み目標を達成するということです。考えるという意欲と訓練も大切な時期です。
3.脳を守る5つの安全装置
頭脳には、頭脳を壊さないための安全装置があります。「眠ること」「アルコール」「歌と踊り」「ゲーム」もそうですが、脳を守るために人間ができるものは、人間だけが体得できる仕事の喜び、働く喜び、勉強の喜び、創造の喜び、育てあげる喜び、この「喜びの気持ち」です。
もし、不幸にも勉強や仕事に喜びを体得できない青年がいたら、その青年は酒と女、あるいは遊びによって脳を守るよりほかに方法がないと思います。私たちは、苦しい勉強であっても、どんな仕事であっても、それができたときの喜び、その「喜びの気持ち」で完全に私たちの脳を守っているのです。
以上、わたしなりにまとめてみましたが、現実の世界では、この人間としての幸せがすべての人々にもたらされているのでしょうか。やはり、ちょっとした気持ちのもち方で幸せを感じられると思うので、私自身を見直して行動しようと考えています。待っていても幸せはやってこないのですから。